母の病歴(10)

[父が病気になる]

  私が、大学生になってから、父の糖尿病は、悪化していった。
  その間も、母の病気は、あいかわらずで、入退院を繰り返していた。
  病院との接触は、父と母だけで、私は、このころ、ケースワーカーとは、会ったことはない。また、治療の内容も、知らなかった。
  ちょうど、私が、大学卒業して、就職をした年、父は、糖尿病のために、眼底出血をして、入院した。
  それ以前も、足のむくみがひどく、近くの病院に通院していたが、医師からは、一度、紹介された大きな病院に短期入院治療をすすめられていた。しかし、父は、「母をほっとくわけにはいかない。働けるうちは、働く」といって、拒んだ。
  そのため、病は、どんどん、進行してしまったのだ。
  そのときは、簡単な手術で、退院できたが、食生活や、ストレスといった環境は、そのままで、良くなるほうには、向かわなかった。
  
  就職してから、二年半後に、私は、家を出て、自立した。母と暮らしたくなかったからだ。そのころも、母は、また、入院していた。
  母が、入院中、父は、かえって、ストレスがなくなり、病気も、安定していたが、母が退院すると、やはり、また、健康状態が悪化した。
  そのころ、父は、何度か、入院をしたが、すぐに、医師とけんかして、退院した。(母がそう言ってたので、真相は不明)
  父の病気がひどいと、母は、自分のことよりも、父の看護のほうに気をとられ、精神病のほうは、おとなしくなっていた。
  ただ、父の病気は、透析まで、進んでいて、もう、よくならなかった。そういう状態で、二年ほどして、父が亡くなった。
  まだ、二十代半ばの私は、長女として、これから、母のことも、引き受けなければならなくなった。
 
 

母の病歴(9)

[ケースワーカーがつく]

  今度のH病院では、医師、看護婦、ケースワーカーがいた。患者ひとりひとりに、担当のケースワーカーが一人ついた。
  ここでは、医師と患者の間にたって、さまざまな相談や手続きなどの代行などをしてくれる。入院中は、患者との面接のあと、ケースワーカーとも面接し、医師からの治療についての経過などの報告をしてくれ、また、患者の病棟生活の様子も知らせてくれた。家族からのいろいろな要望も聞いて、それを医師や看護婦と打ち合わせながら、やっていくという形だった。

  いままで、I病院では、入院中は、特に医師と面会する機会も少なく、退院間際に会う程度。退院後は、まったく患者まかせで、通院している間はいいが、いかなくなると、まったくつながりがなくなった。家族も、母の病気が悪化した場合、誰に相談すればいいのかわからなかった。

  H病院では、退院後も、母が毎月通院し、診察をうけ、薬を飲むという点では同じだったが、それらについて、ケースワーカーが継続して、把握していた。
  そのため、薬を飲まなくなったり、通院をいやがる場合は、まず、ケースワーカーに相談できるようになった。
  ケースワーカーが場合によっては、患者のお宅に訪問して、様子を見たりして、入院の必要ありということになれば、ベッドを確保してくれたり、細かなことをすべてしてくれた。

  そういうこともあり、母は、H病院に一年入院後は、少なくとも、3年間ぐらいは、通院しながら、普通の生活を続けることが出来た。
  また、このころから、精神科の分野での新薬の開発が進み、良い薬が出始めた。薬の名前は、忘れたが、母は「注射一本で、一ヶ月効果がある」薬と飲み薬を併用していた。
  ケースワーカー制度は、とてもいい制度だ。ただ、ケースワーカーは、数が少ないため、非常に多忙で、なかなか電話もつながらないし、ゆっくりと相談もできないことがあった。
  また、家族がなんでも、ケースワーカーに頼り、医師との距離がひろがり、治療の内容や薬のこと、患者への対応、病気についての知識などを自発的に知ろうとしなくなったのは、のちのち大変な苦労を背負うことになるということは、この頃の私たちには、想像もつかないことだった。
 
 

母の病歴(8)

[幻聴で暴れる]

  母は、私が高校生のころの入院のあと、約二年間は、I病院に通院していた。
  私の記憶では、高校の卒業式や、大学の入学式には、母は家にいて、普通に暮らしていた。そのあと、私が大学二年のころ、母が40代後半のころから、また、少しずつ病状が悪化した。

  そのころ、家計は、母に全部預けてあった。母は、普段は、ごく普通の主婦として、家計を管理し、貯金もしていた。浪費ぐせもなく、物を買うのも、必要なものしか買わなかった。
  母の病状の変化は、やたら物を買いまくり出したことから、はじまった。
  私たちは、毎日母が買物袋を両手にもって、帰ってくるのが不思議だった。そのうち、それが、同じデザインの色違いのスカートを数枚単位で、まるで、手当たり次第物を買ってきていることに気付いた。
  「おかしい」とみんなが、思っているうちに、毛布を10枚買ってきたり、そのほかも、セーターやブラウスや、アクセサリーなど、とにかく、家の中は、買物袋や品物であふれるようになっていった。
   父が、「もしかすると、定期預金も、使っているのかもしれない」と、通帳を確かめると、すべて引きおろされていた。それで、すぐに、通帳は、母からとりあげたが、もう、おそかった。
   お金を下ろせなくなった母は、しばらくは、家でおとなしくしていた。毎日、家事をせずに、好きな時間に起きて、ご飯を食べ、また、寝たりしていた。
   「これで、薬を飲んでくれれば、落ち着くかもしれない」とみんな思っていた。しかし、父が勧めても、母はだんだん薬を飲まなくなった。
   
   ある日、学校から帰宅すると、庭にたくさんの衣類や物が捨てられていた。みな、母がやったのだ。それを、妹と片付けたが、次の朝、出かけようとすると、隣のMさんに呼び止められた。
  「お宅の物が家に投げ込まれている」とのこと。母の仕業だった。それで、また、あやまりながら、それを片付けた。
  
  そのあと、母は、昼夜逆転の生活になった。昼間寝て、夜起きて、大声でわめく。幻聴のせいだが、私たちは、みな寝られない。父がいくら、薬を飲むように行っても、病院に連れて行こうとしても、だめだった。
  それでも、父がいい続けると、「ここは、私の家だから、出て行け」と父に怒鳴った。
  私たちも、毎日眠れないので、母に「病院にいって」というと、「みんな、でていけ」と怒鳴られるだけだった。家族としては、暴れる母をタクシーに乗せて病院に連れていくこともできず、どうしていいのかわからなかった。

  こうした生活が数ヶ月も続いたある夜、父が説得すると、母は包丁をもって暴れた。父は、私たち娘にけががあったら大変なので、すぐに部屋に入って鍵をしめるように言った。
  しかし、このままでは、家族が毎日安心して眠ることもできない。私たちも、ノイローゼになりそうだった。母が包丁を持ち出したので、父は、警察に電話した。
  警察は、来たが、「家の中のことには、ふみこめない」と言って、母をみると、少しおとなしくなっていたので、そのまま、ひきあげようとした。
  そのとき、母が急に幻聴でわめき出し、警察の姿を見て、怒鳴りだした。「自分を捕まえにきたのか」と。
  その様子をみて、警察も、父に病院に電話し、そこまで、連れていってあげようといってくれたのだ。
  もう、夜9時をまわっていた。父がI病院に連絡したが、「明日にしてくれ」と断られた。しかし、このままにすることは、できない。そこで、別のH病院に電話で打診した。
   幸い、そこは、病院のほうからも、迎えの車を出せるとの返事だった。家からも、車で5分のところである。
   結局、H病院からの車の到着を待って、警察のほうは、ひきあげた。私は、父といっしょに母を乗せた車で病院に向かった。
   入院の手続きなどをして、二時間ぐらいかかったが、帰りぎわ、父とふたり「これからは、なにかあったら、病院のほうから車を出してくれるから安心だね」と話したことを、今もはっきり思い出す。
 
 

母の病歴(7)

[幻聴で徘徊]

  私が、高校に入る年は、母は退院していて、家にいた。一年ぐらいは、きちんと通院して、薬をのみ、普通の暮らしが続いたと思う。
  ただ、包丁などは、万が一に備えて、一本だけ出して、後は、全部、母に知られないようにしまった。また、私たちの部屋にも、鍵をつけた。
  高校二年になったころ、母の行動に異変が生じた。
  
  ある日の午後、ふと気づくと母が家にいない。誰にも、告げずに出かけたらしい。そういうことは、別に珍しくないし、はじめは、「買物にいったのだろう」とみんな思っていた。
  ところが、夜遅くなっても、帰ってこない。連絡もない。夕食後、私たちは心あたりに当たったが、行方がわからない。
  深夜になっても、連絡なし。父は、私たちには、「先に寝てなさい」と言ったので、私たちは、寝ることにしたが、なかなか寝付けなかった。
  明け方、母がタクシーで帰ってきた。父は、「どこに、行ってたのだ」と聞いた。
  すると、「空港までいって、飛行機に乗ろうとしたが、気がかわり、帰ってきた」という。どうも、動機も、幻聴によるものらしい。どこへ行こうというのも、自分で決めたのではないという。
  ともかく、その日は、無事にもどったので、よかったなと思った。しかし、そのころから、幻聴による独り言が多くなった。

  それからしばらくして、ある休日。その日、突然警察から電話があった。父が出ると、母が保護されているとのこと。言っていることがおかしいので、とにかく、署にきてほしいとのことだ。
  私たちは、「また、なにかしたのか?」と思って、緊張した。父は、すぐに出かけ、数時間後、ひとりで帰ってきた。
  母は、大きな声をあげながら、警察署の前をいったり来たりしていたので、保護したらしい。そこで、調べてみると、以前も、精神病で入院しているということがわかり、家族に連絡したらしい。
  また、母は自分の名前や住所などは、言うが、あとは、妄想でわけのわからないことをずっと言っていたらしい。
  そこで、父は、病院に連絡して、「入院したい」ということで、お願いし、車で、母を病院まで連れていったという。
  帰宅後、父は、入院に必要な物をそろえたり、お金を準備したり、忙しかった。私たちも、その手伝いをしたが、「まだ、興奮しているので、面会は、落ち着いてからがいい」と言って、また、病院にとって帰した。
  私は、このところ、母が大声で独り言をいうたびに、「また、悪くなっている」と毎日、不安だった。なにか、しないかと。こういう思いは、もう慣れっこのはずだが、いちばんつらいのは、友人にも言えないことだ。
  いつまで、こんなことが繰り返されるのだろうか。この病気は、不治の病なのだ。ふつうは、入院して、病が治れば、退院だが、母は、治ったのではなく、安定しただけ。父も、同じ思いだったようだ。

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母の病歴(6)

[祖父が語る母]

  父の両親は、もういなかったので、私は、父方のほうの親戚は、あまりいなかった。祖父といえば、母方のほうで、生まれたときは、祖母も健在で、よく世話をしてくれたという。祖母は、私が、小学校3年生のころ、亡くなった。

  母は、五人兄弟の三番目で、一番上の兄は、幼い時に亡くなっている。その次の姉は、7つ年上で、性格は、とてもはっきりしていて、自由奔放な生き方をしている人だ。その下が母で、母の下には、2歳ちがいの妹、10歳ちがいの弟がいた。
  母の妹も、わりとしっかりしていて、はっきりものをいう性格である。母は、叔母の話によれば、学校での成績もよく、親のいうことはよくきくタイプだったという。ただ、家の手伝いなどは、元気な妹がよくやらされていて、母はどちらかといえば、あまり体を動かさない、文学少女みたいなタイプだったという。

  祖父母は、兄弟の中で、「性格がいちばんおとなしい」というふうに思っていた。
  小学校のころ、母の病気が安定していた年は、よく私たち姉妹をつれて、実家に帰っていた。実家のすぐ近くに、姉がいたし、妹も、夏休みにはもどっていて、よく、三人で話しこんでいたのを覚えている。
  あとから、聞いた話では、しゃべるのは、姉と妹で、母は、聞き役だったらしい。しかし、自分のことをあれこれといわれ、あとで、我が家にもどってから、ふさぎこんでいたことがあり、あまり、よくないなと私たち家族は、感じていた。

  それでも、中学生になるまで、母の病気は、どちらかといえば、「うつ病」タイプで、あばれたりすることは、なかった。それが、中学に入り、なにか心に「不安」の種が植えつけられてどんどん成長していったように思う。
  もちろん、私は中学生で、そんなことに気がつくわけもなく、病気のことも、よく理解できなかった。学校の先生は、父から母の病気のことを聞いていたが、友達には、話していない。話しても、理解できないだろうし、せめて、学校にいる間は、忘れていたかったのかもしれない。
  母が近所の人と、トラブルを起こしても、父がていねいに説明し、謝罪して、私たちには、隣の商店で買物させたり、挨拶させたりしていた。そうしたことを父がやってくれたおかげで、私たちは、孤立せずに暮らしていけたのだと、思っている。