サービスの格差

 昨日、ケアマネが訪問されて、いろいろと新制度について教えてくれたが、その中で、一人暮らしの老人の場合は、家事援助はいままでどおりだが、同居家族のいる人は、利用できなくなるらしい。まだ、詳しいことはわからないが、今朝ヘルパーの責任者とも話したが、それが、同居人が男ならばいいが、女の家族の場合は、制限されるとのこと。時間の制限なのか、それともいっさいだめなのかは、まだ決定ではないらしい。ただ、その方向に流れているらしいのだ。
 なぜ、同居の家族の性別で、家事援助が受けられないのかも理解できない。しかも、要介護度が高い老人の場合もだめとは。家族は、なんなのか?そもそも、家族の介護の負担を軽くして、社会全体でみていこうというのが、介護保険制度の精神ではないのか。
 ほかにも、いろいろとあったが、要するに、「お金が足りないから、ひきしめる」というのでは、こんなのいらないよということになるのではないか。
 はっきりいって、家族と同居が一番よいのに、これでは、施設にあずけなければならなくなる人がますますふえそうだ。
 
 

ディサービス記(3/27)

 この頃、ディサービスが気に入って、待ち遠しくなった母は、朝から優等生だった。
 一人で起床して、朝食をとり、薬をのんでから、部屋で着替えをし、髪まで整えて、迎えの車がくる時刻が近づくと、支度して、リビングに出てきて待った。
 これらの行動が全部きちんとやれるというのは、いかにディサービスに関心が強いかを示している。普段は、こんなにすんなりいかない。髪もぼさぼさなのに。
 迎えの車が、家の前に来たので、私は、母に言って、先に外に出た。ところが、いつもの運転手さんではなかったからか、その車は、Uターンして、走り去ってしまった。「えーっ、どうして?」
 母は、玄関先で不安そうにしている。すぐに、ディサービスへ電話して、しばらくして、その車が戻ってきた。
 「すみません。はじめてなので、路地をひとつ間違えたと勘違いして」とのこと。
 私も母も、ほっとした。母は、いつものように車に乗り込んだ。
 夕方、母が帰宅すると、その日の出来事を聞く。すると、今日は、近くの野川の桜をみんなで見にいったとのことだ。
 「もう、何年も見てなかったから、よかったね」というと、母もとてもうれしそうだった。桜をみようという気持ちももてなかった過去がうそのような母の笑顔だった。
 
 

床ずれ予備軍

 医師から、「もう、いいですよ」と言われた母は、床ずれは完璧に治り、以前のように毎日寝て暮らしても、また悪くなることはないと信じきっているようだ。
 あれから、私も、時々注意したし、訪ねてきたケアマネも、注意したが、決まって「先生は、もう治ったといいました」という一言が返ってくる。そのあと、私も、ケアマネも、同じところにまた出来るからと説明しても、どうも信じていないらしい。
 先週、訪問看護にきた看護士さんに、床ずれのところを見てもらうと、やはり、赤くなってきていた。母は、その場では、看護士さんの言葉に耳を傾けているようだったが、その後は、また忘れているかようだった。
 しかたないので、デジカメで患部を撮影して、母に見せた。すこし、予想外で「赤くなっているねえ」と言っていた。もちちん、その時も、今後は注意すると言っていたが、あまりあてにならない。
 患部が、見えないところにある上、ぜんぜん痛くないから、忘れてしまうのだろう。そもそも、床ずれってどうしてできるのか、さんざん説明してきたが、本人はわかってないのかもしれない。
 関心が薄いと、この調子なので、これから、毎週看護士さんには、患部を見てもらうことにした。関心をもってくれるといいが。
 
 

電気毛布騒動

 母は、昔から電気毛布を愛用していて、私も結婚前は、愛用していた。しかし、欠点もある。口が渇くし、お肌も乾燥する。それで、私は今使っていない。寒い冬は、電気カーペットの上に布団を早めに敷いて、寝るときはスイッチを切って眠ると、大丈夫だ。
 春になり、気温が毎日めまぐるしく変わるので、母は、電気毛布の温度調節に失敗して、よく寝汗をかく。そのあと、着替えてから、温度を下げればいいのに、そのままにして、また寝汗をかく。一晩に3回はやる。
 私は、何度も温度の調節をしてあげたが、自分のしたいようにやるので、この一ヶ月ずっとこの調子だった。その上、「飲んでる薬のせいよ。電気毛布のせいじゃないわ」と主張する。医師にも、薬剤師にも聞いて、「そんなことありません」といわれても、まだ疑念を持ち続けている。
 最近は、夜中に汗にぬれた寝巻きなどをドライヤーで乾かしている。「電気毛布を切って、もし、寒かったらつけたらいいのに」と言うと、「わかった」というが、実行しない。
 桜も開花したので、今日は、電気毛布をやめさせて、ふとんと毛布だけにしてみた。それでも、また電気毛布がいいというのなら、あきらめるしかない。
 母の場合、自分の考えに非常に執着するので、様子をみるしかないのだ。ちゃんと、着替えはできるのだから。
20060323155835.jpg

 
 

ディサービス記(3/20)

 前日の夕方に、ディサービスにもっていく、上履きや連絡帳などを準備して、「明日ね」と母に言う。いまでは、もう心得ていて、大きくうなづく。初めのころは、「毎週いくの?」といつも聞いていた。どうも、関心が薄いのか、システムがわかっていなくて、毎週行くということを忘れてしまうらしい。
 ところが、最近は、ほんとうに心から楽しみにしているのが、顔つきでわかる。「やる気満々みたいよ」と夫にいうと、「続きそうだね」と喜んでいた。母は、やる気がでると、けっこう我慢づよく、ひとつの事に打ち込むタイプなのだ。
 今月は、創作活動で、藁ぞうりを作るらしいが、自由参加だ。母に聞くと、むりだというので、そう連絡帳に書く。今は、とにかく楽しければそれでよし。家で、十年以上も、誰とのつきあいもなく、暮らしていたのだから。
 今日は、帰宅してから母に、なにをしていたかを聞いた。藁ぞうりをしていないグループは、7、8人らしい。「なにしてたかな。」としばらく思い出していたが、「輪投げ」と言った。
 「楽しそうだね。ちゃんと入ったの」もう、母は満面笑みで、「入った」という。
 「お昼になにを食べたの」
 「カレーかな。」というので、「先週と同じね」と私がいうと、もう一度思い出しながら、「さけ」と答えた。ああなるほどね。いつも、うちは鮭をよく食べるから、珍しくなかったんだ。
 「お菓子も、いつものカステラみたいなものなの?」
 「そう、いつもの。一個だけなの」食いしん坊め。私は、大笑い。
 「ひとつで十分よ」
 その夜、母はいつも催促しないとなかなか風呂に入らないのに、さっさっと入り、ぐっすりと寝ていた。
20060323155905.jpg

 
 

「ぜんかれん」を知る

 私は、統合失調症についてのさまざまな本をよんだり、そういう関連の雑誌を求めたりした。そのなかで、全国精神障害者家族会の存在を知る。
 いちばん、自宅から近いところの家族会の連絡先に電話して、一度会合に出席した。
 しかし、やはり、子供が統合失調症の方ばかりの中で、どうしても、母のことを気兼ねなく話すことはできなかった。当時、母はまだ入院中で、いろいろと扱いで苦慮していたからだ。
 ただ、その会合で、「ぜんかれん」誌を渡しされ、中を読んでみると、まさに私が知りたいことが書かれてあったので、さっそく購読した。また、そこが出版したたくさんの本も読んだ。
 おかげで、私はそこからたくさんのヒントを得て、なんとか手探りながら、やってこれたのだと思う。
 「ぜんかれん」誌には、患者が自ら、体験を語る投稿も多い。それが、なにも語らない母の心を知る手かがりを与えてくれた。
20060320114711.jpg

 
 

心の病と向き合う

 父がなくなったのは、20年前で、それまで母のことはすべて父が背負っていたので、私は正直いって途方にくれた。第一に、病気についての正しい知識がなかった。母の病状が悪化すれば、それにふりまわされ、ほんとうにどこから手をつければいいのか、わからなかった。
 それでも、まだ50代だった母に、病院のケースワーカーなどがいろいろとサポートしてくれたおかげで、10年間ぐらいは、まじめに通院を続け、私と妹もなんとか仕事をしながら、生活を続けられた。
 なにもかも、ケースワーカーにまかせておけるという安心感から、私はなにも病気について、勉強していなかった。母は、医者にたいしては、自分の症状を細かに伝えていなかったらしい。だから、薬の副作用が苦しいのに、医者にもケースワーカーにも、家族にもただ「ちょっと、きつい」という程度だった。医者は、「年のせいだから、」と軽くみていたらしい。そして、また薬を飲まなくなった。
 その結果、どんどんひどくなり、大騒ぎを起こしての入院。そのとき、母は「おまえら、私を入院して監禁したいんだろ」とわめいていた。
 母は、医者にも失望し、薬を飲んでも苦しいだけで治らないという長い生活で、誰も信じられなくなっていたのだ。本来なら、入院するのは、病気を治すためなのに、母にとっては、監禁生活のはじまりにすぎなかった。
 そのとき、はじめて、薬だけでは絶対にこの病気は、治せないと思った。でも、どうすれば、母の人間不信は治るのかは、わからなかった。ただ、私はいままでこの病気に向き合っていなかったことだけは、痛感した。
 
 

幻聴を語る母

 春になり、以前よりも体が動くし、元気になった分、母の幻聴は以前よりも頻繁に起こるらしい。部屋にいると、ひとりごとを言っていることが多い。声も大きくなった。
 こんなときは、本人は自覚がないもので、家族が「声が大きくなっているよ」と注意する。そうすると、声を小さくしたり、ひとりごとをやめる努力をする。このように、まわりから言われたら、自己コントロールできる場合は、心配ない。今は、薬の加減もちょうどいいということを示している。
 今日は、午後精神科の看護師さんが来た。事前に母の最近の様子は、メールで知らせてあった。母は、にこにこしている。挨拶のあと、
 「最近、うるさい声がよく聞こえますか」と看護士さんが母に聞いた。母は、ちょっと意外な様子だったし、私はよほど信頼していないと言わないなと思った。
 「はい、聞こえます」
 「どんな声ですか?男の人の声ですか?女の人の声ですか?」
 「両方あります」
 「いやなことをいいますか?ひどいことをいいますか?」
 「そうでもないです」
 「つらくありませんか?そんなときは、どうなされてますか。」
 「なるべくね。答えないようにしたり、無視するようにしたりしてます」
 このやりとりを見ていて、信じられなかった。少なくとも、私の知る限り、過去に病院関係者にこんなにすらすらと、自分の心の内を語ったことなどなかったからだ。
 私が、いちばん気を使ってきたのは、母のまわりには、敵はいないよということをわかってもらうことだった。だから、いつもいつも「先生も、看護士さんも、みんな味方なのよ」をなにかにつけ、いい続けてきたのだ。
 やはり、母は、すこし変わってきたのだと実感した。
                          
 
 

第六感かな

 我が家は、朝一番に起きた者が、一階のリビングのテラス窓のシャッターをあげ、3つの窓のカーテンを開け、それから、電気ポットにコンセントを差し込むことになっている。
 母は、これらを全部できるのにもかかわらず、本人に言わせると「ものすごく、努力して、やっとのこと」なのだ。だから、本心では、二階にいる二人にやってもらいたい。
 朝、7時ごろには、もう目がさめて、母はトイレにいき、それから、また布団にもぐりこむ。私は、だいたい、その足音で目が覚めている。その時間に起きなければならないときは、私も着替えて、降りていく。
 私が、階段から降りて、そのまま洗面所にいき、顔を洗っていると、母は様子を見に部屋から出てくる。そのあと、また部屋で待機。ときどき私は、わざと顔を洗ってから二階にもどり、化粧をしたりしていると、待ちきれず、母はもう一度部屋からでて様子を見ている。多分、「まだかな」と思っているのだ。
 私は、ほんとに耳が聞こえないのかと不思議だ。シャッターを開ければ、母はすぐに出て来るので、その音が聞こえているのだとわかるが、そうしないで、あまり大きな音を立てずに洗面所に行っても、気配でわかるらしい。
 今日は、母が待ちきれず、シャッターをあげ、3つの窓のカーテンをあけた。しかし、時には、私たちが、それらをすべてやって、朝食のお皿などをならべて、お湯もわいてから、ちょうどいいタンミングを出てくる。だから、いつも私たちは、「すごい」と思っているのだ。
 こういう特殊能力がある母だが、普段私たちが、外から帰ってきても、玄関近くの部屋の中にいるのに、わからないのである。やはり、「朝食」に関心があるからなのかな。
 
 

求めているものが違う

 母と接していて、一番難しく感じるのは、私が母のためだと思っているもの、求めているものが、本人のとは、ぜんぜん違うということをわかっていても、つい力が入りすぎることだ。そのことで、結局双方がつらい思いをしてしまう。
 家族以外の、医療関係者、たとえば、主治医や看護士、保健士さんたちは、たくさんの患者さんと接しているので、平均的なところでいいという視点でみている。しかし、家族の立場からすると、やはり、元気なころも知っているし、どうしても、要求が高くなる。
 私も、頭では、そのことはよくわかっているものの、やはり、知らず知らずのうちに、力が入りすぎてしまうことが多かった。
 こうした欠点を補うには、やはり、自分の近くに相談できる人を置くということも、大切だし、母とかかわるときに、一定の距離をもたせるのも、大切だと思っている。
 以前は、7年間つけている母の病状日誌をたよりに、病状に変化があったときに、以前の記録を読み返し、客観的に判断するように努めていた。
 今は、それに加え、まだ完璧な体制とは言えないが、精神科の看護士さんに週一回訪問はしてもらうことで、母の病状について、より客観的に見れるようにし、また、私もひとりで抱え込みすぎないようにできるようになった。気分が楽になった分、母には、あまり力を入れすぎないように接していけるようになりつつある。
 
 

他の人に関心を示す

 母は、長い間、家族以外との人間関係がない生活をしていた。だから、ディサービスにいくようになったら、そこに来ている人たちに関心を示すことが、社会性をとりもどす第一歩だと思っていた。
 それで、ディサービスにいくことが決まってから、母に「あそこにいくのはね。足腰がすこしでも丈夫になるからだけど、それだけではなくて、いつも私に自分はもう歩けないとか、体が動かないとか言うから、他の人と比べてほしいのよ」といった。
 見学をした日にも、私は母に「ねぇ、どうだった?自分よりも元気な人もいたと思うけど、そうでない人もたくさんいたでしょ」と言った。母は、「そうねぇ」と少しだけ納得していた。
 それからは、毎回、他の人たちの様子なども、かならずディサービスから帰ると話題にして、母と話をした。そうして、少しずつ自分のまわりに関心が広がればと思ったからだ。しかし、自分からは、今日の出来事は語らない。
 先日、いつものようにディサービスでの様子を聞き取りしていた。そうしたら、急に
 「あそこには、私よりも、体が不自由で病気の人が、がんばってきているのね。」としみじみと言うではないか。「みんな、偉いよね。元気になろうと努力しているんだものね。うちも、がんばって、よくなろうね。」
 母は、大きくうなづいた。周りに関心をもつようになったのだと確信した。
 
 

できる事を減らさないで

 母と7年前に同居した当時、それまで10年ぐらいは、ひとり暮らしをしていたので、本人はやる気満々だった。
 ところが、精神科の薬を飲んでいるので、副作用が強く、手足の動きは鈍いし、記憶力も低下する、またほとんど一日中寝ているという有様だった。母の退院後に、同居をはじめたが、私は、母に手伝ってもらうよりも、自分の家事の手間がかかるほうが、いやだった。
 それで、はじめは、私が掃除機をかけ、母は、床をワイパーでかけるということをしてくれていたが、寝ているのをいちいち呼んでしてもらうのもめんどうなので、やめた。
 つぎに、毎食の後片付けも、本人はしているつもりが、なにしろ手の動きが悪いし、きれいに汚れがとれないしで、「いいわ、私がやるから」とやめた。
 自分の部屋の掃除機かけは、してもらっていたが、私が母から仕事を奪うと、ますます寝てばかりとなり、ついに自分の部屋の掃除もしなくなった。
 その時、私はやっと大間違いをしていたことに気づいた。それからは、まだできる事を奪わないようにしている。
 今は、朝、ひとりで起きたら、自分で食パンをトースターで焼き、牛乳はカップに入れて、電子レンジでチンする。それから、朝だけは、自分の食器は洗ってもらう。
 洗濯物は、決められたところに出してもらう。たまに、催促しないと出さないが。私が洗濯し、乾いたら本人がたたんでたんすにしまう。(ただし、どこに入れたが忘れることはあるが。)
 それから、風呂も、自分で入るようにさせている。床ずれの間は、手伝っていたが、「服は、自分で脱ぐから」というので、普段からやっていたからだなと少しうれしかつた。(ただし、服の脱着にものすごい時間がかかる。)
 ヘルパーさんにお願いして、母の部屋の掃除をするときは、掃除機はヘルパーさんがかけ、小物をどかしたりするのは母がやるようにしている。
 本人も、実は、自分がなにもできなくなるのは、とても不安なのだと話をしていてわかったからだ。少しでも、「自分はまだやれる」ということを実感しているほうが、うれしいようである。
 
 

関心のある事は覚える

 ディサービスの食事は、気にいっているので、毎回なにを食べたかを必ず聞くようにしている。
 先日も、聞いたが、どうもメニュー表の内容とは違う。その日は、うちでもよく食べるサトイモの煮物や、大根のスープ煮、ほうれん草のおひたしなどだった。
 そういえば、よく覚えているものは、白身魚の焼き物やポークソティーなどだ。
 「どんな形で、食べてるの。ひとつひとつのお皿にのっているの?」
 「あのね。おかずは、大きなお皿に全部のっているの。そのほかに、味噌汁とご飯がつくの」
 「味噌汁とご飯は、お椀なのかしら」
 「そう」
 なるほどね、関心のある事は、よく覚えているのだ。なにに関心があるかは、なにを覚えているかでわかるので、わかりやすい。
 食事のほか、棒体操がお気に入りで、聞くと、実演までしてくれる。ところが、先日、連絡帳にみんなでひな飾りをつくったということが書かれてあったので、どうだったかと聞くと、「してないよ」である。「なんか、折り紙とかで作らなかった?」と聞くと、「ああ、そうね。折り紙したみたい」とのこと。
 母の場合、ほんとうに記憶がまったくないのか、なにかヒントをあたえると思い出すのか、両方あるので、話をとことんするのもおもしろい。
 
 

まだ認知症ではない

 先日、精神科の通院時に、主治医に母の記憶があいまいなのだと相談した。
 たとえば、ディサービスに行き、楽しくみんなと民謡を歌ったと、車で送ってくれた職員さんがおっしゃっていたので、私もうれしくなり、母に「よかったね。みんなで歌をうたったの?」と聞くと、母は「うたってない」という。「民謡をうたったって、言われたよ。覚えてないの?」母は、やはり記憶にないという。しばらくして、大好きな食事の内容をきくと、ちゃんと答えられる。
 また、二月は、寒い日が続いていたが、朝も「体が動かない」といって、私が起こしにいったりしていたが、先日、そのことをいうと、「そんなことをいっていない。毎朝、きちんと起きられた。」と否定する。
 認知症と統合失調症の区別は、難しいなということもあり、主治医に聞いたのだ。
先生は、このほかにも、毎回私が母の様子を細かに聞いていらしたので、「これは、認知症ではないですね。ひとつは、今飲んでいる薬のせいで、ぼーとしていること。もうひとつは、自分の関心事でないと覚えていないのですよ。民謡を楽しく歌っていたと周りはそう思っていたとしても、それは、本人にとってはただまわりに合わせていただけではないですか?」
「そうですね。食事のことは、すごく細かに覚えているのですから」と私は、母の記憶の特徴を思い浮かべた。「そういえば、明日は、通院日だから朝7時に起きてねと前の日に言ったのに、きちんとその時間に起きて着替えて待ってました」その話をしたら、
 「だから、今のところは、認知症ではないと思いますよ。ただ、今後ならないとは言えませんが」
 なんだか、ほっとしたが、反面、将来、認知症と統合失調症がミックスしたら、どうなるのかと複雑な心境だった。
 
 

母の好物

 我が家において、母の好きなメニューは、すき焼きとちらし寿司。ただし、好物は、お菓子とくだものだというのが、本人説。ディサービスの職員にそう答えていた。食べることが大好きなのだ。
 まず、私たち、夫婦とだいたい同量の食事をし、しかも、体の具合の悪いとき以外、残したことはない。風邪も、この10年、一回だけひいたことがあるが、寝てなおした。精神科以外のお世話になったのは、鼻に良性の潰瘍ができたときと、ものもらいで眼科にかかったこと、それから、床ずれぐらいだ。もちろん、血糖値が高いので、私が食事の管理はしているが。
 ふだんは、無表情で食事している母が、すき焼きのときは、目が輝き、にこにこして、「いただきます」という。それから、口をもぐもぐさせながら食べているときも、視線は、常にすき焼き鍋のほうにいっている。婿さんが、「お肉、たくさんあるから、安心していいよ」と気を使い、私は、苦笑してしまう。
 精神状態が非常に悪いときは、幻聴に邪魔されて、母は、食事中もたびたび箸をおいて、ひとりごとをしゃべり続け、見ていてかわいそうだった。今、食事に夢中になれることは、それだけ病状が安定していることなのだと、私は内心ほっとしている。
 
 

歌か、呪文か

 今日は、午前中、母に付き添って精神科の通院をし、いったん家に戻ってから、その足でまた外出した。午後3時前に帰宅し、4時からの訪問看護を待った。疲れていたので、すこし、部屋でうとうとしてしまい、気がつくと4時半になっていた。
 母は、チャイムを鳴らしても、聞こえないので、「看護士さんは、来ているのか」と、あわてて、二階から降りた。母の部屋の前に立つと、やけに静かである。私は、少し遅れているのかなと思い、リビングで、お茶を飲んで待つことにした。
 そのとき、部屋から母の声がした。「部屋で、ぶつぶつなんか言っているな」と思った。そのうち、いつもの「独り言」にしては、やけに長いし、歌のような、呪文のような感じで「なんだろう」と思い、母の部屋の戸を開けると、看護士さんがいた。
 「チャイムを鳴らしても、応答がなかったので、玄関が開いてましたから、上がりました」とのこと。いつもの看護士さんは、声が高くて、すぐにわかるのだが、今日代理できた方は、低い声をしていて、母の声にまじって、わからなかったのだ。
 看護士さんは、毎回、母と歌をうたってくれる。雨なので、今日は、外で歩行練習できないので、ずっとお相手をしてくれたのだ。
 玄関は、いつもは必ず鍵をかけてあるが、帰宅したときに、鍵をかけ忘れたのが、幸いした。そうでなければ、看護士さんは、あきらめて帰ってしまったかもしれない。