今年の締めくくり

  今週は、月曜日と金曜日とも、母はいやがらずに、ディサービスに出かけた。
  水曜日に、訪問看護の看護士さんが来たとき、「ディは、大変ではないですか?」と母に尋ねると、「いえ、大変じゃないです」とはっきりとした口調で答えていた。
  「今日は、お目目ぱっちりしてますね」と言われ、また、にっこり。
  そういえば、母の表情にわずかだが、変化を感じる。目つきが違うのだ。
  私の話に対して、目が表情をもっている。以前は、視点がどっかにあったのに、普通の人のように、ちゃんと、相手の顔をみて、話すようになった。
  
  母の病歴を書いていて、あらためて気がついたことがあった。それは、「目つき」の変化が病気の重さを表しているということ。
  病気が悪くなると、「目つき」が変わってくる。まわりにいる家族には、焦点を合わしていないような目になる。目の前にいる人とまったく、コンタクトをとらなくなるのだ。
  逆に、よくなると、目が表情豊かになり、目の前の人を見て、話すようになるし、関心も示す。コミニュケーションができるようになるのだ。

  だから、我々家族にとって、なによりもつらいのは、病気が悪くなると、まったく、意思が疎通しなくなることだった。どんなに、家族が母のことを心配していても、それがまったく通じなくなり、逆に、「敵」になってしまう。

  この一年で、母の目つきがかわり、どうやら、母はまた、家族の中にもどることができるようになったなと思った。
  この状態を保っていきたいというのが、私の来年への願いである。みなさんも、良いお年を。
 
 

母の病歴(8)

[幻聴で暴れる]

  母は、私が高校生のころの入院のあと、約二年間は、I病院に通院していた。
  私の記憶では、高校の卒業式や、大学の入学式には、母は家にいて、普通に暮らしていた。そのあと、私が大学二年のころ、母が40代後半のころから、また、少しずつ病状が悪化した。

  そのころ、家計は、母に全部預けてあった。母は、普段は、ごく普通の主婦として、家計を管理し、貯金もしていた。浪費ぐせもなく、物を買うのも、必要なものしか買わなかった。
  母の病状の変化は、やたら物を買いまくり出したことから、はじまった。
  私たちは、毎日母が買物袋を両手にもって、帰ってくるのが不思議だった。そのうち、それが、同じデザインの色違いのスカートを数枚単位で、まるで、手当たり次第物を買ってきていることに気付いた。
  「おかしい」とみんなが、思っているうちに、毛布を10枚買ってきたり、そのほかも、セーターやブラウスや、アクセサリーなど、とにかく、家の中は、買物袋や品物であふれるようになっていった。
   父が、「もしかすると、定期預金も、使っているのかもしれない」と、通帳を確かめると、すべて引きおろされていた。それで、すぐに、通帳は、母からとりあげたが、もう、おそかった。
   お金を下ろせなくなった母は、しばらくは、家でおとなしくしていた。毎日、家事をせずに、好きな時間に起きて、ご飯を食べ、また、寝たりしていた。
   「これで、薬を飲んでくれれば、落ち着くかもしれない」とみんな思っていた。しかし、父が勧めても、母はだんだん薬を飲まなくなった。
   
   ある日、学校から帰宅すると、庭にたくさんの衣類や物が捨てられていた。みな、母がやったのだ。それを、妹と片付けたが、次の朝、出かけようとすると、隣のMさんに呼び止められた。
  「お宅の物が家に投げ込まれている」とのこと。母の仕業だった。それで、また、あやまりながら、それを片付けた。
  
  そのあと、母は、昼夜逆転の生活になった。昼間寝て、夜起きて、大声でわめく。幻聴のせいだが、私たちは、みな寝られない。父がいくら、薬を飲むように行っても、病院に連れて行こうとしても、だめだった。
  それでも、父がいい続けると、「ここは、私の家だから、出て行け」と父に怒鳴った。
  私たちも、毎日眠れないので、母に「病院にいって」というと、「みんな、でていけ」と怒鳴られるだけだった。家族としては、暴れる母をタクシーに乗せて病院に連れていくこともできず、どうしていいのかわからなかった。

  こうした生活が数ヶ月も続いたある夜、父が説得すると、母は包丁をもって暴れた。父は、私たち娘にけががあったら大変なので、すぐに部屋に入って鍵をしめるように言った。
  しかし、このままでは、家族が毎日安心して眠ることもできない。私たちも、ノイローゼになりそうだった。母が包丁を持ち出したので、父は、警察に電話した。
  警察は、来たが、「家の中のことには、ふみこめない」と言って、母をみると、少しおとなしくなっていたので、そのまま、ひきあげようとした。
  そのとき、母が急に幻聴でわめき出し、警察の姿を見て、怒鳴りだした。「自分を捕まえにきたのか」と。
  その様子をみて、警察も、父に病院に電話し、そこまで、連れていってあげようといってくれたのだ。
  もう、夜9時をまわっていた。父がI病院に連絡したが、「明日にしてくれ」と断られた。しかし、このままにすることは、できない。そこで、別のH病院に電話で打診した。
   幸い、そこは、病院のほうからも、迎えの車を出せるとの返事だった。家からも、車で5分のところである。
   結局、H病院からの車の到着を待って、警察のほうは、ひきあげた。私は、父といっしょに母を乗せた車で病院に向かった。
   入院の手続きなどをして、二時間ぐらいかかったが、帰りぎわ、父とふたり「これからは、なにかあったら、病院のほうから車を出してくれるから安心だね」と話したことを、今もはっきり思い出す。
 
 

久しぶりに美容院へいった母

[今週の出来事12/18〜12/22]

  18日(月)  母は、いつものようにディサービスへ出かけた。午後3時、介護保険の更新にともない、関係者の会議を家で行った。
  ケアマネ、看護士、介護担当、ディの担当者と、私の五人。母のこの一年の変化については、ディに、すっかり慣れて、楽しそうにしていること。看護士のほうからは、体調については、糖尿のほうは、治療中だが、少しずつ改善され、よくなっている点と、本人との精神面のケアについては、少しずつ良い方向に向かっているとのこと。
  介護については、ふつうの患者と違う精神病を考慮し、生活の面に興味をしめすように働きかけるように努めるとのこと。掃除にしても、いっしょに参加するようにする。また、過保護はしない。本人に自信をもたせることを心がけて行うとのこと。
  私は、特に介護については、今のヘルパーさんが、とても私の話を理解してくれ、母を介護してくれているので、嬉しく思った。
  私も、精神科の医師と、内科の医師の間に立って、常に、情報交換するようにし、これらに、くわえて、ケアマネ、看護士、介護担当、ディの担当者といいチームワークが形成されるようにこれからもやっていきたいと意見を述べた。
  
 19日(火) 内科クリニックに通院する。
    やはり、血糖値については、横ばいのままだが、ヘモグロビンの値が7.7に下がったので、このまま治療を続けるということでよいとのこと。また、今回、コレステロール値は、少し下がったとのこと。

 20日(水) 訪問介護では、ヘルパーさんといっしょに、素直に掃除をしたとのこと。
    訪問看護においても、いつもの看護士さんではなかったが、とても素直にいっしょに歩いて、コミニュティセンターで、写真本を見たらしい。表情もよく、言葉もいろいろいと話すようになったとのこと。

 21日(木) 朝、「もう、半年も美容院いってないから、いったら?」と、母に勧めた。母は、「店がつぶれてなくなった」と思い込みをしていたらしい。歩いてすぐの美容院なので、「ちゃんとやっているよ」というと、久しぶりに美容院に行き、さっぱりしてきた。

 22日(金) 天気は、よくなかったが、朝はちゃんと起きて、ディに行った。

  あまり、順調なので、こわいが、今週は、いい調子の母だった。
 
 

看護士さんが一押し

[訪問看護12/13]くもりのち雨

  母が、一日中寝ていることなどをいつもの看護士さんに詳しく話した。
  そこで、看護士さんが、ディサービスへいくことを母に勧めてくれ、予想外に母はすんなりと承知した。
  気が変わらないうちに、看護士さんが、すぐディへ連絡をいれ、金曜日に空きがあるかどうかを確認した。その場で、金曜日に空きがあることがわかり、正式な回答は、後で、ディの所長からするということになった。
  そのあとは、いつもどおり、雨の中、看護士さんと近くのコミュニティセンターまで行って、本を見たりした。母は、やはり、いつもの看護士さんを全面的に信頼していることがよくわかった。先週の別の看護士さんとの時と、まったく違っていた。
  その後、話をケアマネさんに通してくれ、金曜日にいくことが決定した。

[ディサービス記12/15]くもり のち 晴れ

  果たして、行ってくれるか心配していたが、徒労に終わった。
  母は、いつも月曜日に行くのとまったく同じ様子で、ちゃんと、朝は、起きるし、そのあとの支度もちゃんとやって、迎えを待った。
  母としては、心の中では、もう八割は行ってもいいと思っていたのかもしれない。残りのワンプッシュを看護士さんがしてくれたことで、決まったのだと思う。
  私も、このブログを書いていて、健康診断の件を思い出し、もしかすると、看護士さんが一言をいってくれれば、できるかもしれないと思っていたが、本当だった。

   午後3時半に、母が帰宅した。ちょっと緊張していたのか、午後なにをしたのかと聞いても、すぐに思い出せない。連絡帳に「ボーリング」とあったので、聞くと、「ああ、そうだった。みんなで玉ころがししてた」とのこと。
   金曜日は、カラオケ、マージャン、創作ということでした。今後を期待しょう。

 
 

ディでの母の様子


[ディサービス記12/11]晴れ

  母は、今朝は、やはり、表情が悪く、のろのろと食事し、着替えていたが、ディには、行った。

  夕方、車から降りたときに、職員さんが「今日は、午後大正琴の先生が来たとき、『あっ、先生が来なすった』といって、とてもいい笑顔で迎えられたのですよ。いままで、そんなことは、なかったのに」と言っておられた。
  母に「楽しかったの?」と聞くと、笑顔で「楽しかった」と答えた。
  
  帰宅後、母にいろいろな質問をしながら、なぜ二回行きたくないのかを探ってみた。
  どうも、疲れるからとか、楽しくないからということではなく、「必要性」を感じないらしい。
  たとえば、そこで、体操したり、身体を動かすことは、確かに母の足腰にはプラスになっているのだが、本人は、そうは思ってない。
  「寝てばかりだと、足が弱る」ので、そこで運動することが大切ということが、どうも、わかってない。「年をとったから、足が弱る」というロジックなのだが、「運動が必要」とは、あまり思ってない様子。
  もちろん、私がそれを説明すると、「わかった」というが、結局、その場かぎりで、次の日からまた「寝てばかり」の生活にもどる。
  ディサービスは、楽しいし、いやではないものの、母が、「必要性」を認識していないという点は、覚えておかないといけないなと思った。
  たとえば、以前、健康診断に行かないといい続けていたのも、同じロジックだった。何年も、説得したが、だめだった。そのくせ、「身体が動かない」という。普通ならば、病院にいこうと思うのに、母は「必要ない。精神科にいけば治る」といい続けた。母のロジックと私たちのロジックは、かみ合わないのだ。
  とはいえ、看護士さんが、行くようにいうと、すんなりと、「必要性」をみとめた。こういう点は、本当にいまだに私には、理解できない。
 
 

母の病歴(7)

[幻聴で徘徊]

  私が、高校に入る年は、母は退院していて、家にいた。一年ぐらいは、きちんと通院して、薬をのみ、普通の暮らしが続いたと思う。
  ただ、包丁などは、万が一に備えて、一本だけ出して、後は、全部、母に知られないようにしまった。また、私たちの部屋にも、鍵をつけた。
  高校二年になったころ、母の行動に異変が生じた。
  
  ある日の午後、ふと気づくと母が家にいない。誰にも、告げずに出かけたらしい。そういうことは、別に珍しくないし、はじめは、「買物にいったのだろう」とみんな思っていた。
  ところが、夜遅くなっても、帰ってこない。連絡もない。夕食後、私たちは心あたりに当たったが、行方がわからない。
  深夜になっても、連絡なし。父は、私たちには、「先に寝てなさい」と言ったので、私たちは、寝ることにしたが、なかなか寝付けなかった。
  明け方、母がタクシーで帰ってきた。父は、「どこに、行ってたのだ」と聞いた。
  すると、「空港までいって、飛行機に乗ろうとしたが、気がかわり、帰ってきた」という。どうも、動機も、幻聴によるものらしい。どこへ行こうというのも、自分で決めたのではないという。
  ともかく、その日は、無事にもどったので、よかったなと思った。しかし、そのころから、幻聴による独り言が多くなった。

  それからしばらくして、ある休日。その日、突然警察から電話があった。父が出ると、母が保護されているとのこと。言っていることがおかしいので、とにかく、署にきてほしいとのことだ。
  私たちは、「また、なにかしたのか?」と思って、緊張した。父は、すぐに出かけ、数時間後、ひとりで帰ってきた。
  母は、大きな声をあげながら、警察署の前をいったり来たりしていたので、保護したらしい。そこで、調べてみると、以前も、精神病で入院しているということがわかり、家族に連絡したらしい。
  また、母は自分の名前や住所などは、言うが、あとは、妄想でわけのわからないことをずっと言っていたらしい。
  そこで、父は、病院に連絡して、「入院したい」ということで、お願いし、車で、母を病院まで連れていったという。
  帰宅後、父は、入院に必要な物をそろえたり、お金を準備したり、忙しかった。私たちも、その手伝いをしたが、「まだ、興奮しているので、面会は、落ち着いてからがいい」と言って、また、病院にとって帰した。
  私は、このところ、母が大声で独り言をいうたびに、「また、悪くなっている」と毎日、不安だった。なにか、しないかと。こういう思いは、もう慣れっこのはずだが、いちばんつらいのは、友人にも言えないことだ。
  いつまで、こんなことが繰り返されるのだろうか。この病気は、不治の病なのだ。ふつうは、入院して、病が治れば、退院だが、母は、治ったのではなく、安定しただけ。父も、同じ思いだったようだ。

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言うことがコロコロ変わる


[精神科通院12/6]はれ

  主治医には、母が最近、寒くなってきてから、去年とまったく同じように、毎日寝てばかりということを報告した。ただ、今年は、ディサービスへは言っているし、クリニックで糖尿のチェックもしているので、去年のようにひどいことには、ならないかもしれないとは、言っておいた。先生も、「まぁ、これ以上はどうしょうもないですね」とのこと。
  今回は、正月をはさむので、ちょっと大目に薬を処方してもらう。

[訪問看護12/6]

  午前中、母と精神科に通い、昼前に帰宅した。母には、「お昼は、ちゃんと食べてね」と念を押し、私は、用事があるので出かけた。
  午後4時、いつもの看護士さんは休みで、代わり看護士さんがきてくれた。うちの訪問は、三度目である。しかし、やはり、「散歩しましょうか」というと、「歩けない」と言い出して困らせる。看護士さんも、「それでは、半分だけ」というと、しぶしぶ出かけた。
  ところが、しばらくして、戻ってきて、看護士さんが、私を呼ぶ。
 「お昼食べていないから、歩けないというのです。それで、コンビニでなにか買って食べたいというのですが、どうしましょう」
  このごろ、寝てばかりで、昼もぬく。やはり、今日もやったかと思った。「しかし、もう4時だから、夕食が6時なので、たくさん食べさせないでほしいのです。糖尿なので、血糖値のこともあるので」と私がいい、相談して、肉まん一個ということにした。
  30分後、帰宅すると、なんと、看護士さんも、母に付き合ってくれて、いっしょにあんまんをコミニティセンターで食べてきたという。申し訳なかった。
   母は、平気な顔をしている。なんのために、看護士さんが来てくれるのか、理解しているのだろうかと思った。

  最近は、母には、あまり物を言わないが、良い機会なので、いろいろと話をした。
  その中で、「毎日、寝てばかりだと、よくないから、昼間、起きていられないのなら、やはり、ディサービスに週二回いったほうがいいんじゃない?」といってみた。
  すると、「いいわよ。」という。「ほんと?」「あそこは、みんなで、体操したり、お遊戯するからね」とのこと。気の変わりやすい人なので、二、三回念押ししたが、かまわないという。

[12/7]曇り 

 それでも、母のことは、知り尽くしているので、今朝、その話を切り出してみた。
  「やはり、やめるわ。あそこにいったからって、身体がよくなるかどうかわからないから」
  「みんな、一年前よりも、ずっと、よくなっていると言ってるよ」
  「そうかしら」
  「一年前がどうだったか、覚えていないの?」
  「忘れた」
  物事を消極的にとらえている母なのだから、当然の回答だと思った。前途遠し。
 
 

ディサービスの日はちゃんと起きる

[ディサービス記12/4]晴れ

  朝晩、めっきり寒くなり、母の生活は、完全に「冬型」になっていた。
  先週後半は、晴れていても、ほとんど一日中、ふとんの中にいる。朝、起こすまで起きない。以前は、規則正しく、自発的に7時半に起床していたのに、今は、9時すぎても起きない。
  朝食後、また、ふとんにもぐる。このように、トイレと、食事と、風呂以外は、布団の中にいて、飽きないのが不思議だ。もっと、不思議なのは、一日中寝ていても、夜、食後に風呂にはいり、出るとそのままふとんに入り、寝られること。
  ディサービスの前日に、「明日は、8時には起きてね」と念を押した。「だめでもともと」と思っていた。  
  ところが、翌朝、8時ごろには、起きた。そして、そのあとも、自分で着替えたりして、準備をととのえ、車がくると、自分から玄関を出た。
  これを見ていて、「もしかすると、今年は、去年とは違うかも」と少し期待してしまう。

[クリニックに通院12/5]晴れ

  昨日、ディサービスから帰宅後、「明日、クリニックにいくからね。糖尿の検査で、血をとるから、朝は、きちんと起きて食事してね」と言った。
  そうしたら、今日も、きちんと朝7時半に起きて、自分で食事をとり、薬を飲んだ。
「なにか、目的があれば、できるのか」と思った。
  クリニックに行くと、先生が、二週間前の血糖値が162(食後3時間15分)ということで、今までの中では、いちばんよいとのこと。健康診断から5ヶ月たっているので、今日は、レントゲン、心電図、尿、血液の検査もした。血液は、検査項目を増やして、コレステロールもみるとのこと。
  少し待って、「尿は、まだ糖がだいぶでている」とのこと。レントゲンと心電図は、OK。このところ、から咳きをするので、先生に診てもらったが、大丈夫ですとのこと。血液検査の結果は、二週間後だ。
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母の病歴(6)

[祖父が語る母]

  父の両親は、もういなかったので、私は、父方のほうの親戚は、あまりいなかった。祖父といえば、母方のほうで、生まれたときは、祖母も健在で、よく世話をしてくれたという。祖母は、私が、小学校3年生のころ、亡くなった。

  母は、五人兄弟の三番目で、一番上の兄は、幼い時に亡くなっている。その次の姉は、7つ年上で、性格は、とてもはっきりしていて、自由奔放な生き方をしている人だ。その下が母で、母の下には、2歳ちがいの妹、10歳ちがいの弟がいた。
  母の妹も、わりとしっかりしていて、はっきりものをいう性格である。母は、叔母の話によれば、学校での成績もよく、親のいうことはよくきくタイプだったという。ただ、家の手伝いなどは、元気な妹がよくやらされていて、母はどちらかといえば、あまり体を動かさない、文学少女みたいなタイプだったという。

  祖父母は、兄弟の中で、「性格がいちばんおとなしい」というふうに思っていた。
  小学校のころ、母の病気が安定していた年は、よく私たち姉妹をつれて、実家に帰っていた。実家のすぐ近くに、姉がいたし、妹も、夏休みにはもどっていて、よく、三人で話しこんでいたのを覚えている。
  あとから、聞いた話では、しゃべるのは、姉と妹で、母は、聞き役だったらしい。しかし、自分のことをあれこれといわれ、あとで、我が家にもどってから、ふさぎこんでいたことがあり、あまり、よくないなと私たち家族は、感じていた。

  それでも、中学生になるまで、母の病気は、どちらかといえば、「うつ病」タイプで、あばれたりすることは、なかった。それが、中学に入り、なにか心に「不安」の種が植えつけられてどんどん成長していったように思う。
  もちろん、私は中学生で、そんなことに気がつくわけもなく、病気のことも、よく理解できなかった。学校の先生は、父から母の病気のことを聞いていたが、友達には、話していない。話しても、理解できないだろうし、せめて、学校にいる間は、忘れていたかったのかもしれない。
  母が近所の人と、トラブルを起こしても、父がていねいに説明し、謝罪して、私たちには、隣の商店で買物させたり、挨拶させたりしていた。そうしたことを父がやってくれたおかげで、私たちは、孤立せずに暮らしていけたのだと、思っている。
 
 

母の病歴(5)

[隣家との事件]
 
 八百屋事件のあと、しばらく、入院していたが、数ヶ月で落ち着いたので、退院した。治療の詳しい内容については、私は、よく知らないが、おもに、薬の服用と入院中は、作業療法もしていたように思う。

 退院後、母が薬をきちんと飲んでいる間は、安心だったが、このごろから、ときどき、飲み忘れたりしていて、父がよくきちんと飲むように言っていた。
 隣は、商店をしていて、食料品や雑貨、燃料などを扱っていた。私たちも、よく買物をしていたし、母も、隣の店の人とは、ごく普通に接していた。言い争うようなこともなく、挨拶もきちんとしていた。
 ある日、隣の店の奥さんが家に来た。私が、先に玄関に出たので、「おかあさんいる?」と聞いたので、母を呼んだ。
 「奥さん、私がお宅の悪口をいいふらしていると誰に聞きましたか?」という。何のことか、わからなかったが、母は、「そう、聞こえた」と答えた。
 「私も、言ってないのに、そういう噂がたつのは、いやなので、誰なのか、教えてください」と重ねていうと、母は、「とにかく、聞こえてきたのだから」と言って、追い返すように戸を閉めた。

 それから、数日後、私と父と妹は、家の中にいたが、母は、外に出てしばらくして、かえってきた。そのすぐあと、パトカーの音がして、「なにごとか」と父が、外に出た。
 すると、隣の商店の主人が「奥さんが、店に来て、急にわめいて、ここのまきの束を包丁で切ったんですよ。だから、警察を呼びました」という。
 我々は、ただびっくりするだけで、そのとき、母は、部屋の中にいて、坐っていた。うちの玄関に警官が二、三人やってきて、父が事情をきかれていたが、父も、「見ていないので、わからないが、妻は、精神病で、やったのかもしれない」と答えていた。
 警察は、母にも、玄関に出てくるようにいったので、母は、出てきた。しかし、なにを聞かれても、要領を得ない。そのうち、「ちょっと、ご同行願いたいのですが」と言われた。
 ところが、母は、怒りだし、抵抗したうえ、殴りかかろうとして、警官に取り押さえられた。警官たちは、父の了承を得て、「奥さんをこのままにすると、危険ですから」ということで、とりあえず、パトカーにのせ、父も同行した。

 そのあとのことは、父が警察から帰ってから、聞いた話だが、警察でも、母は、わめいたりして、あばれたので、「緊急入院」ということになったという。いつも通っている、I病院に連絡して、母の入院手続きをしたらしい。
 その間、数時間かかったので、私と妹は、家で不安の中、父の帰るのを待っていた。
 このように、興奮状態の患者の場合、まず、「閉鎖病棟」に入院する。そこで、数日間は、精神安定剤で落ち着かせてから、面会ができるようになる。それから、だいぶして、病状が安定してから、普通病棟に移る。

 この事件は、母にも、私たち家族にとっても、精神的なダメージが多かった。特に、私にとって、母がこんなに変わってしまい、どう向き合っていけばいいのかわからなかった。
 
 

母の病歴(4)


[八百屋事件]

  私が、中学生になってから、母が、入院している間、学校(私学)が終わると、妹を連れて帰宅し、近くのスーパーマーケット(個人店舗が入っている)で夕食の材料などを買う。それから、父が帰るまで、宿題をしたり、テレビを見て待っている。
  電気炊飯器の使い方と、お米の研ぎ方を父に習い、ご飯のセットは、できるようになったが、まだ、おかずを全部作ることのは、出来ないので、半分は惣菜を買って、あとは、父が帰ってから、調理してくれた。
  掃除は、週末に、私と妹が掃除機をかけ、父は、洗濯をした。そのほかのいろいろな家事などは、ほとんど父がやっていた。
  そのほか、母が「着替えがないから、これこれ持ってきて」と言ってくるので、休みの日は、父が必要なものを見舞いのときにもっていった。私たちも、定期的に、父といっしょに母を見舞った。
  そうした生活は、もう、小学校のころからしていたので、私は慣れっこだった。

  母が退院して、しばらくは、家事をやるが、一年ぐらいたつと、急になにもしなくなる。
  私が、学校から帰ると、「今日は、気分が悪いから、夕食は、自分でつくってね」という。お金をもらって、妹と、肉屋さんや魚屋さん、八百屋さんなどを毎日廻るので、すっかり、なじみ客になっていたので、それほど苦にならなかった。
  その日も、学校から帰ると、母は暗い表情をして、部屋に坐っていた。着替えたあと、夕食の買物のメモと、買物かごとお財布をもって、妹とふたり出かけていった。
  八百屋は、スーパーマーケットの中に一軒と、少し離れたところに、一軒あり、どれも、通り道なので、日によって、どちらかで買物をしていた。
  その日、少し離れたところの八百屋に立ち寄った。店の奥には、30歳ぐらいのお上さんがひとりいる。その人は、私の顔をみるなり、血相を変えて、「あんたたちのお母さんがね。私をひっぱたいたのよ」と大声でわめいた。
  私は、突然のことで、ショックで頭の中が真っ白となり、なんのことか、さっぱり、わからなかった。母は、暗い表情をして、静かに家にいる。いままで、母が人をたたくようなことなんて、一度もなかった。だから、ただ、驚いて、立ち尽くしていた。
  その後も、店にいたほかの奥さんたちに、「あの子たちの母親が、」と言い続けていて、私は、なにもできず、ただ妹の手を引いて、すごすごと家に帰った。そして、父が帰ってきてから、父に八百屋に行ってもらおうと思った。
  夜、父が仕事から帰ると、私は、八百屋での出来事を話し、父は、すぐに、八百屋に行ってくれた。父がだいぶたって、戻ると、母のしたことがわかった。
  父によれば、母は八百屋にたちより、普通に買物をしていたという。そのうち、お上さんが近くを通り、母が急に頬を叩いたというのだ。お上さんの言い分では、「私は、べつになにもへんなことを言ってないし、いつもどおりしていたのに、突然、叩かれた」とのこと。その後、興奮していたお上さんは、一時間ぐらい父に文句を言い続けたらしい。それで、おわびの気持として、りんごを一箱買ったという。
  その話を父から、聞いていると、しばらくして、八百屋のおじさんがやってきた。
  「私も、でかけていて、女房からきいてびっくりしましたが、りんごはいいですから、お返しください」という。
  八百屋のおじさんは、以前からの顔なじみなので、私たち子供にもやさしい。父は、「うちのは、病気なので、迷惑かけましたから、いいのです」といった。
  母は、どうやら、記憶がとんでしまっていたらしい。母の言い分は、聞けなかった。そのあとも、落ち着かないので、また、しばらく、入院となったが、この事件から、母の病気がいままでとは様相を変えていく。