母の病歴(5)

[隣家との事件]
 
 八百屋事件のあと、しばらく、入院していたが、数ヶ月で落ち着いたので、退院した。治療の詳しい内容については、私は、よく知らないが、おもに、薬の服用と入院中は、作業療法もしていたように思う。

 退院後、母が薬をきちんと飲んでいる間は、安心だったが、このごろから、ときどき、飲み忘れたりしていて、父がよくきちんと飲むように言っていた。
 隣は、商店をしていて、食料品や雑貨、燃料などを扱っていた。私たちも、よく買物をしていたし、母も、隣の店の人とは、ごく普通に接していた。言い争うようなこともなく、挨拶もきちんとしていた。
 ある日、隣の店の奥さんが家に来た。私が、先に玄関に出たので、「おかあさんいる?」と聞いたので、母を呼んだ。
 「奥さん、私がお宅の悪口をいいふらしていると誰に聞きましたか?」という。何のことか、わからなかったが、母は、「そう、聞こえた」と答えた。
 「私も、言ってないのに、そういう噂がたつのは、いやなので、誰なのか、教えてください」と重ねていうと、母は、「とにかく、聞こえてきたのだから」と言って、追い返すように戸を閉めた。

 それから、数日後、私と父と妹は、家の中にいたが、母は、外に出てしばらくして、かえってきた。そのすぐあと、パトカーの音がして、「なにごとか」と父が、外に出た。
 すると、隣の商店の主人が「奥さんが、店に来て、急にわめいて、ここのまきの束を包丁で切ったんですよ。だから、警察を呼びました」という。
 我々は、ただびっくりするだけで、そのとき、母は、部屋の中にいて、坐っていた。うちの玄関に警官が二、三人やってきて、父が事情をきかれていたが、父も、「見ていないので、わからないが、妻は、精神病で、やったのかもしれない」と答えていた。
 警察は、母にも、玄関に出てくるようにいったので、母は、出てきた。しかし、なにを聞かれても、要領を得ない。そのうち、「ちょっと、ご同行願いたいのですが」と言われた。
 ところが、母は、怒りだし、抵抗したうえ、殴りかかろうとして、警官に取り押さえられた。警官たちは、父の了承を得て、「奥さんをこのままにすると、危険ですから」ということで、とりあえず、パトカーにのせ、父も同行した。

 そのあとのことは、父が警察から帰ってから、聞いた話だが、警察でも、母は、わめいたりして、あばれたので、「緊急入院」ということになったという。いつも通っている、I病院に連絡して、母の入院手続きをしたらしい。
 その間、数時間かかったので、私と妹は、家で不安の中、父の帰るのを待っていた。
 このように、興奮状態の患者の場合、まず、「閉鎖病棟」に入院する。そこで、数日間は、精神安定剤で落ち着かせてから、面会ができるようになる。それから、だいぶして、病状が安定してから、普通病棟に移る。

 この事件は、母にも、私たち家族にとっても、精神的なダメージが多かった。特に、私にとって、母がこんなに変わってしまい、どう向き合っていけばいいのかわからなかった。
 
 

母の病歴(4)


[八百屋事件]

  私が、中学生になってから、母が、入院している間、学校(私学)が終わると、妹を連れて帰宅し、近くのスーパーマーケット(個人店舗が入っている)で夕食の材料などを買う。それから、父が帰るまで、宿題をしたり、テレビを見て待っている。
  電気炊飯器の使い方と、お米の研ぎ方を父に習い、ご飯のセットは、できるようになったが、まだ、おかずを全部作ることのは、出来ないので、半分は惣菜を買って、あとは、父が帰ってから、調理してくれた。
  掃除は、週末に、私と妹が掃除機をかけ、父は、洗濯をした。そのほかのいろいろな家事などは、ほとんど父がやっていた。
  そのほか、母が「着替えがないから、これこれ持ってきて」と言ってくるので、休みの日は、父が必要なものを見舞いのときにもっていった。私たちも、定期的に、父といっしょに母を見舞った。
  そうした生活は、もう、小学校のころからしていたので、私は慣れっこだった。

  母が退院して、しばらくは、家事をやるが、一年ぐらいたつと、急になにもしなくなる。
  私が、学校から帰ると、「今日は、気分が悪いから、夕食は、自分でつくってね」という。お金をもらって、妹と、肉屋さんや魚屋さん、八百屋さんなどを毎日廻るので、すっかり、なじみ客になっていたので、それほど苦にならなかった。
  その日も、学校から帰ると、母は暗い表情をして、部屋に坐っていた。着替えたあと、夕食の買物のメモと、買物かごとお財布をもって、妹とふたり出かけていった。
  八百屋は、スーパーマーケットの中に一軒と、少し離れたところに、一軒あり、どれも、通り道なので、日によって、どちらかで買物をしていた。
  その日、少し離れたところの八百屋に立ち寄った。店の奥には、30歳ぐらいのお上さんがひとりいる。その人は、私の顔をみるなり、血相を変えて、「あんたたちのお母さんがね。私をひっぱたいたのよ」と大声でわめいた。
  私は、突然のことで、ショックで頭の中が真っ白となり、なんのことか、さっぱり、わからなかった。母は、暗い表情をして、静かに家にいる。いままで、母が人をたたくようなことなんて、一度もなかった。だから、ただ、驚いて、立ち尽くしていた。
  その後も、店にいたほかの奥さんたちに、「あの子たちの母親が、」と言い続けていて、私は、なにもできず、ただ妹の手を引いて、すごすごと家に帰った。そして、父が帰ってきてから、父に八百屋に行ってもらおうと思った。
  夜、父が仕事から帰ると、私は、八百屋での出来事を話し、父は、すぐに、八百屋に行ってくれた。父がだいぶたって、戻ると、母のしたことがわかった。
  父によれば、母は八百屋にたちより、普通に買物をしていたという。そのうち、お上さんが近くを通り、母が急に頬を叩いたというのだ。お上さんの言い分では、「私は、べつになにもへんなことを言ってないし、いつもどおりしていたのに、突然、叩かれた」とのこと。その後、興奮していたお上さんは、一時間ぐらい父に文句を言い続けたらしい。それで、おわびの気持として、りんごを一箱買ったという。
  その話を父から、聞いていると、しばらくして、八百屋のおじさんがやってきた。
  「私も、でかけていて、女房からきいてびっくりしましたが、りんごはいいですから、お返しください」という。
  八百屋のおじさんは、以前からの顔なじみなので、私たち子供にもやさしい。父は、「うちのは、病気なので、迷惑かけましたから、いいのです」といった。
  母は、どうやら、記憶がとんでしまっていたらしい。母の言い分は、聞けなかった。そのあとも、落ち着かないので、また、しばらく、入院となったが、この事件から、母の病気がいままでとは様相を変えていく。
 
 

母の病歴(3)


[睡眠薬事件]

 母のような病気にかかった患者のほとんどは、自傷行為を行う。自殺未遂も多い。
 私が中学に入ってから、母は、退院後しばらくは、規則正しい毎日の生活をしていた。
普通のお母さんがするように、毎朝、家族が起きる前に起きて、昼食の用意をし、夫と子供を送り出してから、掃除、洗濯、買物をする。
 私たちは、午後帰宅すると、おやつが用意されていて、それを食べて、宿題をし、母は、夕方から夕食の準備、お風呂をたく。そして、父が早く帰る日は、一家だんらんだ。
 母は、お酒を飲まないが、父の話を聞くのが好きで、私たちが食後、テレビを見ている間も、晩酌を付き合っていた。
 そういう生活が、退院後長くて二年ぐらいしか続かなかった。毎年、私たち父子の新年の願い事は、「母が今年も、病気がひどくならないように」だった。

 ある日、私が、いつものように、帰宅し、夕食を済ませ、ふと、母をみると、いつものと少し違っていた。表情は、暗いし、私たちに話しかけない。
 夕食後、テレビを見ていると、母が「薬を飲んでしまった。救急車をよんで」という。
 私には、なんのことかまったくわからなかったので、立ちすくんでいると、母は、自分で救急車を呼んだ。
 「睡眠薬を一瓶飲んでしまいました。救急車をお願いします」あとは、自分の住所、氏名を伝えていた。
  母の様子は、私からは、正常のようにしか見えなかった。ともあれ、父がまだ帰宅していないため、救急車に同乗してくれと隊員さんに言われ、妹が、ひとりで留守番をして、私は、母といっしょに病院に向かった。
  母は、胃洗浄をして、大事には至らなかった。父がほどなく、病院に到着し、医師らに、母の病気の説明をしていた。
  その間、私がすごく冷静で、取り乱してなかったので、救急隊員が「しっかりしているお嬢さんですね」と父に話していたのを、覚えている。
  そうではなくて、まず、母が飲んだ睡眠薬というのは、どういうものかもよく知らなかったし、母が死ぬなんて、まるで考えていなかったからだ。
  その日から、母の薬の管理は、父がするようになった。母は、ほどなくまた入院した。
 
 

母の病歴(2)

[包丁事件]

 私が、小学校にあがるころ、父の転勤で、また母の実家から離れたところに移り住んだ。
 ちょうど、私が、3年生ころ、ある日、学校から帰ると、父が荷物をまとめていて、母がまた、しばらく、入院することになったといった。
  私は、普段とかわらない母だと思っていたので、どういうことか、理解できなかった。
  母の入院先は、実家の近くの病院なので、また、離ればれになることは、わかったので、さびしかった。
  それでも、夏休みには、母の実家に長逗留して、母とは、よく面会できたので、半年はあっという間にすぎたように思う。
  次の年、母が退院してから、家を新築し、引越しをした。母も、しばらくは、新しい家で、通院しながら、元気に暮らしていた。
  私が小学校6年のころ、母の病気が再発した。
  私が、妹と、いつものように学校から帰宅すると、母の様子が変だった。しばらくして、台所から包丁を持ち出し、私に「いっしょに死のう」と近づいてきたのだ。
  私は、怖くなって、妹の手をひっぱり、サンダルばきのまま、家を飛び出した。そして、近くの神社まで、逃げ込んだ。母は、追ってこなかったが、父が、もどる時間までそこでじっとしていた。
  夕方、父が、私たちを捜しにきて、私たちは、ようやく家に帰れた。
  それから、しばらくして、母はまた、精神病院に入院した。どうも、このころから、「統合失調症」(当時は、精神分裂病)と診断されたらしい。今度の病院は、同じ市内にあったので、面会には、便利であった。
  しかし、私は、こわくて、しばらく、母には、面会できなかった。そのうち、父に連れられ、母と面会したとき、母は、いつもの母だったし、あのことは、覚えていなかったらしい。信じられなかった。私にとっては、はじめて、母の病気の怖さを知った体験だったからだ。
 
 

母の病歴 (1)


[発病]

  母が発病したのは、妹を産んだ年である。年齢は、32歳だった。
  亡父から聞いた話によると、はじめは、「うつ病」であり、ひとりで留守番していると、不安に襲われたらしい。私は、まだ4歳で、専業主婦だった母は、妹を妊娠してから、さらに病状が悪化した。
  母は、五人兄弟の三番目で、大家族の家に育った。私が生まれたときは、実家にいて、父も実家近くで仕事をしていたので、家族の助けがあった。しかし、その後、実家から離れたところに移り住み、環境の変化についていけなかったらしい。
  それでも、父もいろいろと気をつかい、近所の人に「留守の間、なにかありましたら、よろしく」と頼んだりして、母が困ったら、声をかけやすいように計らったりした。それでも、病気が進むと、夕方、父がもどるまで、家事もほとんどできずに、じっとしていたらしい。私は、当時、もう、幼稚園に通っていたし、そばにお寺があり、そこの住職さんが、「遊んでいっていいよ」と言ってくれたので、父が帰るまで、お世話になっていたという。
  母が妹を妊娠中、非常に不安定だったので、父も、母の実家の祖父に相談していたらしいが、出産は、地元でした。それから、すぐに、祖父が母を迎えに来て、実家の近くの精神病院に入院した。
  そのため、母は、妹を出産した記憶がないという。妹も、生まれてから、一年ぐらいは、母と離れて育った。子育ての経験のあるお手伝いさんが来て、妹の面倒をみていた。
  母と妹の親子関係は、私と母とは、まったく違ってしまったのも、このためである。
 大きくなっても、妹は、頭では、母とはわかっていても、なにか姉とは違っているなとずっと、感じていたという。
  また、母も、私と妹とは、分け隔てなく育てていたものの、心のどころかに、違和感を覚えていたらしい。「生んだ記憶」というのは、母親にとっては、とても、重要なものなのだ。
  母は、一年後、退院し、その後の2、3年は、親子が離れて暮らすことはなかった。私が、6歳のとき、父は、また、転勤で、母の実家の近くにもどった。